③ジョセフ・スペンス バイオグラフィ☆
ジョセフ・スペンス(Joseph Spence)は、1910年8月3日にバハマ諸島最大の島、アンドロス島のスモール・ホープにて生まれた。
姉のイーデス・スペンス(Edith Spence)は1909年に生まれており、その他に4人の異母兄弟がいた。
イーデスは後にレイモンド・ピンダー(Raymond Pinder)と結婚し、その娘がGeneva Pinder(ジェニーバ・ピンダー)である。
(ピンダーファミリーは、イーデスがリード・ヴォイス、レイモンドがベース・ヴォイス、ジェニーバがトレブル・ヴォイス)
当時バハマは、天然スポンジ(海綿動物)の漁が盛んで、スペンスの父親もスポンジ・フッカーと呼ばれる漁師を生業としていた。
島民の多くはクリスチャンで、スペンスの父親はバプティスト教会(The old Mount Sinai Baptist Church)の牧師をしており、コンサーティーナを演奏できた。
スペンスが9歳の時、アメリカのフロリダで暮らしていた叔父がアンドロス島を訪れた際にギターを貰った。
アンドロス島に住んでいた別の叔父、Tony Spence(トニー・スペンス)は32のキーを持つフルートの達人であり、フルコードをかき鳴らすギターの奏法(スペンスの言葉で"scramming")を最初にスペンスに教えた。
その後、スペンスは独学でギターを練習し、14歳になる頃には、トニー・スペンス、タンバリン奏者、太鼓奏者と一緒に、ダンスパーティ等の集まりでギターを演奏をするようになった。
少年時代は短剣で藪を切り開いてヤムイモやトマトを植える農業に従事していたが、16歳頃からスポンジ漁に出るようになった。
スポンジ漁は一度、船を出すと8~10週間は海の上で過ごす為、スペンスは潮風で弦が錆びないように大切に布で包んでギターを持ち込み、昼間は竿でスポンジを引っかけてボートに引き上げる作業をし、夜になるとボートの下からギターを取り出して楽しんだ。
1938年の終わり頃、病気が原因でスポンジの90%以上が突如としてバハマの海から姿を消してしまい、多くの島民が職を失った。
スペンスはその2年前に、稼ぎの悪いスポンジ・フッカーに見切りをつけ、1936年にニュープロビデンス島のバハマの首都、ナッソーに移住した。
スペンスはナッソーで、キャット島出身のルイーズ・ウィルソン(Louise Wilson)と運命的な出会いをし、その後すぐ1937年に結婚した。
稼ぎの良い仕事を探していたスペンスは、その手先の器用さを活かして”独学で”石工および大工の仕事を覚え、少しずつ収入を得始めるようになった。
第二次世界大戦で労働者が不足した為、アメリカ政府の政策により、多くのバハマ人がアメリカに出稼ぎに行くことが可能になり、1944年からスペンスとルイーズも契約を結んでアメリカに渡り、2年の間、フロリダ、ジョージア、デラウェア、東テネシー等の各地の農場で作物の収穫作業に従事した。
そのアメリカでの2年間に、スペンスは讃美歌、ゴスペル、流行歌など、あらゆる音楽を聞いて吸収した。
ヴァージニアの農場では、同じくバハマから出稼ぎに来ていたサンサルバドル島出身のブルーミング・ロザリー・ロバーツ(Blooming Rosalie Roberts)と出会い "Living on the Hallelujah Side"を教えてもらった。
その後、バハマに戻ってからも交流は続き、1979年のレコーディングでは2人で同曲を歌っている。
スペンスはこの時期に多くの本物のブルースを聞いたが、自分でブルースをマスターしようと思ったことは無く、数多いレパートリーの中には"St. Louis Blues"1曲しかブルース曲はない。
ブルースギターのテクニックを一部取り入れているようにも聞こえるが、Blues(憂鬱)と底抜けに明るいスペンスの音楽の精神性は正反対である。
スペンス自身は「The blues never really "grafted to my head."」との言葉を残している。
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ジョセフ・スペンスの音楽をブルースに分類した記述を日本語でも英語でも多く見かけるが、ブルースの定義の問題なので、間違いとは言えないかもしれない。
バハマやアメリカで自分の耳で聴いたほぼ全ての音楽ジャンルを折衷し、唯一無比の音楽スタイルを作り上げたスペンスが、3コードさえ覚えれば形だけは簡単に演奏できる”ブルース”だけはマスターしなかったというのは、スペンスの音楽を理解する上でとても重要なポイントであると思われる。
しかし、スペンスのファンにはブルース好きな方が多いので、その重要性が認識されにくいのかもしれない。
スペンスは自分のレコードは1枚も持たず、生涯に渡りレコード・プレイヤーすらも持とうとしなかった為、純粋に人の縁から生まれた音楽を楽しむことが好きだったのであろう。
スペンスの歌とギターのスタイルはどちらも唯一無比の超オリジナルであるが、音楽著作権ビジネスには縁が無かったせいもあるのか、オリジナル曲は遺していない。
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1946年にスペンスとルイーズはナッソーへ戻り、スペンスは夫婦で住む為の石のコテージを自分で建てた。
(”ルイーズ・コテージ”と呼ばれ、スペンスは生涯そこに住んだ)
アメリカから戻ってから、しばらくの間、スペンスは日中は大工として働き、夜はホテルやヨットの上で演奏して報酬を得ていたが、ナッソーのナイトクラブ・シーンのいかがわしさに対する軽蔑の念や、夜の治安の悪さから、間もなく演奏の仕事は辞めた。
生涯においてスペンスは教会や仲間内での演奏がメインで、ナッソーの波止場を散歩する際に観光客の為に演奏したり、バハマまで訪ねてきたファンの為に演奏したりもした。
スペンスは大工としてナッソー中に多くの家を建て、他の誰よりも早く良い仕事をできる自信と誇りを持っており、注文も多かった。また自分で建てた家を他人に賃貸もしていた。
1958年にバハマに来た音楽研究家のサミュエル・チャーターズによって、スペンスは偶然”発見”され、7月23日にFresh Creekでレコーディングが行なわれた。
The Complete Folkways Recordings (1958)
また1964年にはナッソーでレコーディングが行なわれた。
Happy All the Time
の1曲目は妻、ルイーズの歌と共に始まる。
1965年5月13日にはアメリカでの初のコンサートをマサチューセッツ州 ケンブリッジで行い、翌日にはニューヨークでコンサートを行なった。イーデス・ピンダー(スペンスの姉)も出演した。
ニューヨーク公演はPeter K. Siegelによってレコーディングされ、コンサート前にはPeterの自宅でもレコーディングが行なわれた。使用ギターはPeterから借りたマーティンD-28。
The Spring of Sixty-Five
(2,5,7,8,9,12)
Kneelin' Down Inside The Gate: The Great Rhyming Singers of the Bahamas
(15)
Real Bahamas, Vol. 1-2
(4,25)
1965年6月3日にはナッソーで、ピンダーファミリーと共にレコーディングが行なわれた。
The Spring of Sixty-Five
(1,3,4,6,10,11,13)
Kneelin' Down Inside The Gate: The Great Rhyming Singers of the Bahamas
(2,7,11,14)
Real Bahamas, Vol. 1-2
(1,7,12,16,17,21,23,28)
ちなみに、ルイーズとスペンスの共演によるWon't That Be a Happy Timeはバハマの曲ではなく、讃美歌集”Harmony Heaven”から学んだものである。
1971年に、スペンスはボストン・ブルース・ソサエティの後援でボストンに行き、5月16日の午後からアパートでレコーディング、同日夜にコンサート出演を行なった。Bahamian Guitarist: Good Morning Mr. Walker
Arhoolie Recordsはこのレコーディングと引き換えにスペンスの旅費を出し、宿泊先はボストン・ブルース・ソサエティのメンバーの友人のアパートであった。
ソサエティのメンバーはそれまでに多くのブルースマンを同様にボストンに招待した経験があったが、スペンスがアパートの自分用の鍵を貰えるように礼儀正しく、しかしはっきりと要求したのは、彼らにとって全くの予想外のことであった。
この旅行の為に、スペンスはナッソーから自分のギターを持ってきていたが、借り物のマーティンD-18が気に入ったのでそちらを使った。
コンサートホールは、スペンスのレコードを聴いた人々が押し寄せ満員であった。
心臓発作の為、体に負担のかかる大工仕事ができなくなり、スペンスは1972年からオークス・フィールド小学校(Oakes Field Primary School)の夜警員に職を変えた。
大好きなラム酒も体に良くないので止めて、代わりにコカコーラとビールを混ぜてオンザロックで ちびちびと飲む程度になった。
小学校にはピアノがあったので、ギターの音を一音ずつ鍵盤に移し替えて練習したが、しばらくするとピアノへの興味を失った。(1980年のスペンスのピアノ演奏はGlory
に収録)
1972年11月に、スペンスはケンブリッジの第2回ボストン・ブルース・ソサエティ・コンサートに出演した。
Living on the Hallelujah Side
(1,3,5,6,12)
スペンスはこの旅行で雪の降る寒さの厳しい気候を初めて経験した。ライ・クーダーにも会い、2人はほとんど一晩中ホテルの部屋で演奏し、友人となった。
このツアーではニューヨーク、ニューポートでも演奏をした。
1975年に、多くのミュージシャンが憧れるニューヨークのカーネギーホールへの出演依頼を電話で受けるが、スペンスは「旅行する気分ではない」と、あっさり断ってしまった。
1978年3月29日、30日と5月4日にナッソーの自宅、ルイーズ・コテージでレコーディングが行なわれた。
Glory
(1,4,5,6,11)
1978年3月29日、5月7日に、レイモンド&イーデス・ピンダーの自宅でレコーディングが行なわれた。
Glory
(2,3,9,10,12,13,14,15)
1978年8月23日、24日にナッソーのニューオリンピアホテルでレコーディングが行なわれた。
Living on the Hallelujah Side
(2,4,7,8,9,10,11)
このセッションでアメリカ出稼ぎ時代からの旧友、ブルーミング・ロザリー・ロバーツと共演した。
当時、彼女は、ナッソーのストローマーケットで、ストローハットや、ハンドバック、人形等を作り販売していた。
1978年に、スペンスはナッソーの唯一のテレビ局に出演したが、これも含めてスペンスの映像は現在一つも残っていない。
1980年4月13日にブルーミング・ロザリー・ロバーツの自宅でレコーディング行なわれた。
Glory
(7)
翌日、4月14日にOakes Field Primary Schoolでレコーディングが行なわれた。
Glory
(8)
1980年に、姉のイーデス・ピンダーが亡くなり、その翌年、彼女の夫のレイモンド・ピンダー(1907-1981)が亡くなった。
2人が亡くなって間もなくスペンスも病気になり、1984年3月18日にルイーズ・コテージで73歳で亡くなった。
Small Hope, Andros, 1980
姉のイーデス・スペンス(Edith Spence)は1909年に生まれており、その他に4人の異母兄弟がいた。
イーデスは後にレイモンド・ピンダー(Raymond Pinder)と結婚し、その娘がGeneva Pinder(ジェニーバ・ピンダー)である。
(ピンダーファミリーは、イーデスがリード・ヴォイス、レイモンドがベース・ヴォイス、ジェニーバがトレブル・ヴォイス)
イーデス・ピンダー(スペンスの姉), 1978年
ジョセフ・スペンス / レイモンド・ピンダー, 1978年
当時バハマは、天然スポンジ(海綿動物)の漁が盛んで、スペンスの父親もスポンジ・フッカーと呼ばれる漁師を生業としていた。
島民の多くはクリスチャンで、スペンスの父親はバプティスト教会(The old Mount Sinai Baptist Church)の牧師をしており、コンサーティーナを演奏できた。
The old Mount Sinai Baptist Church in Calabash Bay, Andros, 1980
スペンスが9歳の時、アメリカのフロリダで暮らしていた叔父がアンドロス島を訪れた際にギターを貰った。
アンドロス島に住んでいた別の叔父、Tony Spence(トニー・スペンス)は32のキーを持つフルートの達人であり、フルコードをかき鳴らすギターの奏法(スペンスの言葉で"scramming")を最初にスペンスに教えた。
その後、スペンスは独学でギターを練習し、14歳になる頃には、トニー・スペンス、タンバリン奏者、太鼓奏者と一緒に、ダンスパーティ等の集まりでギターを演奏をするようになった。
少年時代は短剣で藪を切り開いてヤムイモやトマトを植える農業に従事していたが、16歳頃からスポンジ漁に出るようになった。
スポンジ漁は一度、船を出すと8~10週間は海の上で過ごす為、スペンスは潮風で弦が錆びないように大切に布で包んでギターを持ち込み、昼間は竿でスポンジを引っかけてボートに引き上げる作業をし、夜になるとボートの下からギターを取り出して楽しんだ。
1938年の終わり頃、病気が原因でスポンジの90%以上が突如としてバハマの海から姿を消してしまい、多くの島民が職を失った。
スペンスはその2年前に、稼ぎの悪いスポンジ・フッカーに見切りをつけ、1936年にニュープロビデンス島のバハマの首都、ナッソーに移住した。
スペンスはナッソーで、キャット島出身のルイーズ・ウィルソン(Louise Wilson)と運命的な出会いをし、その後すぐ1937年に結婚した。
ルイーズ&ジョセフ・スペンス ~理想の夫婦~
稼ぎの良い仕事を探していたスペンスは、その手先の器用さを活かして”独学で”石工および大工の仕事を覚え、少しずつ収入を得始めるようになった。
第二次世界大戦で労働者が不足した為、アメリカ政府の政策により、多くのバハマ人がアメリカに出稼ぎに行くことが可能になり、1944年からスペンスとルイーズも契約を結んでアメリカに渡り、2年の間、フロリダ、ジョージア、デラウェア、東テネシー等の各地の農場で作物の収穫作業に従事した。
そのアメリカでの2年間に、スペンスは讃美歌、ゴスペル、流行歌など、あらゆる音楽を聞いて吸収した。
ヴァージニアの農場では、同じくバハマから出稼ぎに来ていたサンサルバドル島出身のブルーミング・ロザリー・ロバーツ(Blooming Rosalie Roberts)と出会い "Living on the Hallelujah Side"を教えてもらった。
その後、バハマに戻ってからも交流は続き、1979年のレコーディングでは2人で同曲を歌っている。
スペンスも学んだ讃美歌集”Harmony Heaven” 1935年テネシー州で出版
スペンスはこの時期に多くの本物のブルースを聞いたが、自分でブルースをマスターしようと思ったことは無く、数多いレパートリーの中には"St. Louis Blues"1曲しかブルース曲はない。
ブルースギターのテクニックを一部取り入れているようにも聞こえるが、Blues(憂鬱)と底抜けに明るいスペンスの音楽の精神性は正反対である。
スペンス自身は「The blues never really "grafted to my head."」との言葉を残している。
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ジョセフ・スペンスの音楽をブルースに分類した記述を日本語でも英語でも多く見かけるが、ブルースの定義の問題なので、間違いとは言えないかもしれない。
バハマやアメリカで自分の耳で聴いたほぼ全ての音楽ジャンルを折衷し、唯一無比の音楽スタイルを作り上げたスペンスが、3コードさえ覚えれば形だけは簡単に演奏できる”ブルース”だけはマスターしなかったというのは、スペンスの音楽を理解する上でとても重要なポイントであると思われる。
しかし、スペンスのファンにはブルース好きな方が多いので、その重要性が認識されにくいのかもしれない。
スペンスは自分のレコードは1枚も持たず、生涯に渡りレコード・プレイヤーすらも持とうとしなかった為、純粋に人の縁から生まれた音楽を楽しむことが好きだったのであろう。
スペンスの歌とギターのスタイルはどちらも唯一無比の超オリジナルであるが、音楽著作権ビジネスには縁が無かったせいもあるのか、オリジナル曲は遺していない。
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1946年にスペンスとルイーズはナッソーへ戻り、スペンスは夫婦で住む為の石のコテージを自分で建てた。
(”ルイーズ・コテージ”と呼ばれ、スペンスは生涯そこに住んだ)
アメリカから戻ってから、しばらくの間、スペンスは日中は大工として働き、夜はホテルやヨットの上で演奏して報酬を得ていたが、ナッソーのナイトクラブ・シーンのいかがわしさに対する軽蔑の念や、夜の治安の悪さから、間もなく演奏の仕事は辞めた。
生涯においてスペンスは教会や仲間内での演奏がメインで、ナッソーの波止場を散歩する際に観光客の為に演奏したり、バハマまで訪ねてきたファンの為に演奏したりもした。
スペンスは大工としてナッソー中に多くの家を建て、他の誰よりも早く良い仕事をできる自信と誇りを持っており、注文も多かった。また自分で建てた家を他人に賃貸もしていた。
1958年にバハマに来た音楽研究家のサミュエル・チャーターズによって、スペンスは偶然”発見”され、7月23日にFresh Creekでレコーディングが行なわれた。
The Complete Folkways Recordings (1958)
CDジャケットの元写真 ルイーズ・コテージにて演奏中
また1964年にはナッソーでレコーディングが行なわれた。
Happy All the Time
後ろの子供のカメラ目線が味わい深い
1965年5月13日にはアメリカでの初のコンサートをマサチューセッツ州 ケンブリッジで行い、翌日にはニューヨークでコンサートを行なった。イーデス・ピンダー(スペンスの姉)も出演した。
ニューヨーク公演はPeter K. Siegelによってレコーディングされ、コンサート前にはPeterの自宅でもレコーディングが行なわれた。使用ギターはPeterから借りたマーティンD-28。
The Spring of Sixty-Five
Kneelin' Down Inside The Gate: The Great Rhyming Singers of the Bahamas
Real Bahamas, Vol. 1-2
1965年6月3日にはナッソーで、ピンダーファミリーと共にレコーディングが行なわれた。
The Spring of Sixty-Five
Kneelin' Down Inside The Gate: The Great Rhyming Singers of the Bahamas
Real Bahamas, Vol. 1-2
ちなみに、ルイーズとスペンスの共演によるWon't That Be a Happy Timeはバハマの曲ではなく、讃美歌集”Harmony Heaven”から学んだものである。
イーデス・ピンダー / ジョセフ・スペンス
1971年に、スペンスはボストン・ブルース・ソサエティの後援でボストンに行き、5月16日の午後からアパートでレコーディング、同日夜にコンサート出演を行なった。Bahamian Guitarist: Good Morning Mr. Walker
Arhoolie Recordsはこのレコーディングと引き換えにスペンスの旅費を出し、宿泊先はボストン・ブルース・ソサエティのメンバーの友人のアパートであった。
ソサエティのメンバーはそれまでに多くのブルースマンを同様にボストンに招待した経験があったが、スペンスがアパートの自分用の鍵を貰えるように礼儀正しく、しかしはっきりと要求したのは、彼らにとって全くの予想外のことであった。
この旅行の為に、スペンスはナッソーから自分のギターを持ってきていたが、借り物のマーティンD-18が気に入ったのでそちらを使った。
コンサートホールは、スペンスのレコードを聴いた人々が押し寄せ満員であった。
心臓発作の為、体に負担のかかる大工仕事ができなくなり、スペンスは1972年からオークス・フィールド小学校(Oakes Field Primary School)の夜警員に職を変えた。
大好きなラム酒も体に良くないので止めて、代わりにコカコーラとビールを混ぜてオンザロックで ちびちびと飲む程度になった。
小学校にはピアノがあったので、ギターの音を一音ずつ鍵盤に移し替えて練習したが、しばらくするとピアノへの興味を失った。(1980年のスペンスのピアノ演奏はGlory
1972年11月に、スペンスはケンブリッジの第2回ボストン・ブルース・ソサエティ・コンサートに出演した。
Living on the Hallelujah Side
スペンスはこの旅行で雪の降る寒さの厳しい気候を初めて経験した。ライ・クーダーにも会い、2人はほとんど一晩中ホテルの部屋で演奏し、友人となった。
このツアーではニューヨーク、ニューポートでも演奏をした。
1975年に、多くのミュージシャンが憧れるニューヨークのカーネギーホールへの出演依頼を電話で受けるが、スペンスは「旅行する気分ではない」と、あっさり断ってしまった。
1978年3月29日、30日と5月4日にナッソーの自宅、ルイーズ・コテージでレコーディングが行なわれた。
Glory
1978年3月29日、5月7日に、レイモンド&イーデス・ピンダーの自宅でレコーディングが行なわれた。
Glory
ジョセフ・スペンス ルイーズ・コテージにて May 5, 1977
1978年8月23日、24日にナッソーのニューオリンピアホテルでレコーディングが行なわれた。
Living on the Hallelujah Side
このセッションでアメリカ出稼ぎ時代からの旧友、ブルーミング・ロザリー・ロバーツと共演した。
当時、彼女は、ナッソーのストローマーケットで、ストローハットや、ハンドバック、人形等を作り販売していた。
1978年に、スペンスはナッソーの唯一のテレビ局に出演したが、これも含めてスペンスの映像は現在一つも残っていない。
1980年4月13日にブルーミング・ロザリー・ロバーツの自宅でレコーディング行なわれた。
Glory
翌日、4月14日にOakes Field Primary Schoolでレコーディングが行なわれた。
Glory
1980年に、姉のイーデス・ピンダーが亡くなり、その翌年、彼女の夫のレイモンド・ピンダー(1907-1981)が亡くなった。
イーデス・ピンダー(1909-1980)
イーデス・ピンダー / ジョセフ・スペンス / レイモンド・ピンダー
2人が亡くなって間もなくスペンスも病気になり、1984年3月18日にルイーズ・コテージで73歳で亡くなった。
ジョセフ・スペンス(1910-1984)
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